worksは8/24に更新しました.

学びと遊びについて1

学びと、遊び。
最近気にかかる話題。

「学びを遊びに」
「遊びを学びに」

最近、こんな考えが盛ん。

つい、うっかり、乗ってしまいそうな
天然炭酸水の清涼果汁のみたいな、
ごくっと飲みほしたくなるフレーズだけど、
どこかで疑いを持ちたくなる。

その理由の一つは、

(たしか…)今井むつみ氏の著作で、
遊びとは無目的だということが
書いてあった。
一方、学びは目的がある。

無目的なのに、目的につながる?
これが矛盾のように感じられる。

「子どもの頃の言葉についての学び」
という事に限定していえば、
学びの最終目的は小学校。

各ワークショップで、子どもたちと
顔を合わせると同時に、
その親御さんたちとも対面するのだけど
なんとなく感じるのは、
小学校までに、読み書きがどこまで
できるか。
みたいな心配に神経質になっている
ところが少なからずある。

「なってもらわないと!」
そのために「させないと!」みたいな。

だから、
(学びの定義がちょっと違うかもだけど)
ぼくが個人的に感じる「学び」の語感は、
「やってもらいたい」
「やらせたいこと」
として自分以外から提案されるもの。
に、なっているような。
学びとは、「親からの願い」。
(だからこそお金払いたくなる
理由にもなるよな)

自分自身でも、
ワークショップをするとき、
たまにある。
興味のない子がいても、
お金いただいてるし、しっかり
やってもらわないと、と思う。

でも、無理に手厚くフォローしていると、
けっこう辛い。

学びは「させる」という一面もある。

じゃあ、どうしたら、
いい学びを提案できるだろう?

発達支援の先生や、
広瀬友紀氏の著作でも
学びをさせたい側として
できることは限られている、
ということを言ってる。

ちゃんと、
こちらの思うとおりに
うまくやってほしい、
という気持ちや押しつけは
逆効果や無意味で、
できることは、
ただ励ますこと、いいね!
と見守ることしか、できないんだって。

学びが「させる」だとしたら、
遊びは「したい」。

そう思ってみたら、
なんにしたって、
能動的に取り組むことができれば
目的のない事であっても、
目的のある勉強的なことであっても、
ひっくるめて遊びと言えるんじゃないかなと。

だから、ぼくが何かを作るときに
いつも思うのは、
「やってみたい」気持ちを
作れたらいいなということ。

ただ、

「遊びと学び」で難しいのは、
本来の遊びは「今この瞬間」がピーク、
だけど、大人は割と
「未来」をピークに見据えている。
ように思う。

遊びと学びを絵本で謳う場合、
営業的な口説き方を考える時、
大人に「未来への安心保障」として
提案したい一面もあるが、
本来的(子ども)には、
「いまこの瞬間の好奇心」つまり、
目的なんてどうでもいい。
という気もしている。

「学び」っていう言葉の本質は結局、
「お金を払うための理由」みたいな
ものの為にあるんじゃないのかな。
それを払しょくするには、
どういうとらえ方を
したらいいんだろう?

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