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博学になるために

西岡事務局長の週刊「挿絵展」より
ふたたび、こんなところが気になった。
 
1889年に刊行された「あおいろの童話集」
(アンドル・ラング)に挿絵を描いた
ヘンリー・J・フォードの絵について…
 
「沢山の写真や文献の資料を
参考にしているのだろうし、
フォードという人が博学だったことは
間違いなく…(中略)」(引用)
 
描けることが博学である、というのは
実になるほどそうであると思った。
 

 
極端な例だけど
「忍者ハットリくん」を描いてと
言われたとき、どんなにデッサンが
上手であっても
そのキャラクターを知らなければ
描きようもない。
 
自転車を描いてごらんと言われても、
自転車の構造を知っていないと、
ちゃんと描けたことにはならないし、
バラとチューリップを並べて描いて、
と言われて
どっちがどっちだか区別が付くように
描けるには、それがなんであるかを
やっぱり知っている必要がある。
 
気になる150
 
小説にも同じような事がある。
スタインベックの短編集を読むと、
(地面から八インチのところで
剪定しなければいけない)という
菊の育て方や、
渓谷に特有の朝の色のことや、
干し草を食べるときには
馬の歯の音がする、とか、
体験してみないと気付く由もない
ことがたくさん出てくる…。
 
ぼくは絵を見ながら、本を読みながら
自分の知らなさを疎ましく思う。
 
桜の花をみてきれいと思っても、
花がどのような構造して伸びているか
理解していないのだ=描けないのだ、
と思ってガックリくる。
 

 
「読めば/見れば」それが何だか分かる。
けれど、それを再現しなさいと
言われると、
とたんにイメージできなくなる。
 
たとえるなら、世界は
「読めるけど書けない漢字」
で満ちている。
 
読めも書けもできるように
なるには、頭の貯蔵庫に
イメージをたくさん貯めておかなくては。
 
線路沿いの桜の木の下で
楽しそうに電車の車両番号や
何だか分からない名称を語り合う
鉄ちゃんたちに、ぼくは
羨ましい眼差しを注ぐ。

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