もやもやな考え1
言葉は意識から生まれているので、
言葉には意味がある。
たとえば、「あいうえお」から
ランダムに「ね」だけ
切り取ってみても、
いろんな意味付けができる。
「ねっこ」の「ね」と言ったり、
「ね」…と言ったら「ねこ」でしょ
って思ったり、
「寝る」の「ね」とか、
声をかける時の「ねー」とか。
なにかしら意味付けされてこそ、
言葉は言葉っぽくなる。
そうでなかったら、
ただのへんてこな線の塊でしかない。
*
意味付けされるとはいえ、
上記したように、言葉は
いろんな意味にとれる場合がある。
つまり、とても曖昧。
「言葉の正しく使う作法」があるなら、
文字をうまく組み合わせて
こちらの言わんとする内容に
意味を限定していくことに
なるんだろうか…。
これが、
相手に伝えるということに
なるんだけど、
意味を、だれがみても「同じ」
にするという性質が言葉にはある。
*
そうやって、
いったん言葉を覚えてしまうと、
むだな感覚を遮断しても大丈夫になる。
別の観点から言い直せば、
「違い」について、どうでもいいと
思ってしまう。
例をあげると、
算数の文章問題で、
こんなのがあったとする。
「リンゴを5つ買いましたが、
夕方に2つ食べました。
残りはいくつあるでしょうか?」
こんなとき、
実際には、やや小さなリンゴがあったり、
いい匂いのがあったり、
くすんでるのがあったり、
いびつなのがあったりする。
でもそういう細かい違いは
いまは関係ない。
リンゴは全部同じリンゴなの。
と考えた方が都合がいい。
*
でも、スーパーで値上げされた
「ねぎ」を買う時は、
「全部同じねぎ」でなくなる。
あのねぎより、こっちのねぎの
方が豊満な感じがするわね、
なんておもう。
こういうとき、言葉よりも
五感から与えられる感覚の方が
優先して感じられる。
「同じ」ではなく、
「違い」を見分けるのは
感覚の方。
*
言葉で「同じ」というイメージを
定着させるのは、
人にとって都合のいいことが多い。
かといって、「違い」を見分ける感覚を
おざなりにしても悪いような気になる。
*
「こんな顔してあいうえお」という
絵本を製作中なのだけど、
これは、ともすると、
記号的な表現になる。
具体的にいうと、
“「あ」は、うれしいときの「あ!」”
という表現があったら、
ぼくのする「あ」でも、
あなたのする「あ」でも
同じ意味です、という。
そんなら、突き詰めちゃうと、
ピクトグラムでいいじゃないか、
ということになる。
けれど、それじゃ
やっぱり、つまらない。
*
欲をいえば
記号的なキャラクターよりも、
絵の中の子が本当にそこにいて、
性格を感じられるような
描き方をしたい。
うれしい「あ」にも、
いろんな感情の大きさもあるし、
その子の、その状況で
毎度毎度違う。
この子の、このタイミグの、
この表情って、
みてると、頬がゆるむ。
みたいな写真、動画が、
インスタみてると、タイムラインに
流れてくる。
*
そんなことを意識していると、
絵を描くのが難しくてたまらない。
図形的に、というか、
グラフィック的に
うまいこと記号化しつつ、
かつ、
性格をもったキャラクターとして
描きたい…。
活き活きしている様子、
どんな服を着ていて、
どんな場所にいて、
どういう気持ちで
そうしているのか、
声をかけたら、
どういう反応しそうなのか、
想像しながらかこうと思うと、
これがまたむずいかしい。
インスタでためし描きしてます。
2018/09/27