ことばは音だった
ことばあそびの発祥は和歌だったらしい。
記録として残す時こそ書いていたのだけど、
多くは声で詠まれていた。
書き文字ではなくて、声でことばを聞くと、
当たり前だけど、すべての文字が音で聞こえる。
「音で聞こえる」と、ことばは漢字じゃないから、
同音異義語があった時に意味が判別しにくい。
「あわでこがるる」なんていう一節があるが、
「泡で漕がるる」とも「逢わで焦がるる」という
ダブルの意味で捉えることもできてしまう。
これはあえて掛詞として作っているんだけど。
逆に言えば、そんな高度な作り方もできちゃう。
これが音のことばの特徴。
もともと日本語は、「あいうえお~わをん」のほかに
濁音、清濁音、「しゃしゅしょ」など合わせても、
120くらいしか音がない。
一方、英語は一万音以上もあるので、
大分少ないとわかる。
少ない音で全てのことばを作るので、
必然的に同音語や入れ替えことば、逆さことばが
生まれやすくなる。
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貴族のものだったことばあそびが時代を経て、
江戸時代には庶民権を得る。
落語、判じ絵、なぞ染、口合(だじゃれ)など
わっと広まっていたらしい。
音でことばをキャッチしていた時代だからこそ。
しかし、僕自身(きっと今の人も)当時のことば遊び、
ひいては、ことば遊び自体に対して、
面白さを感じきれていない気がする。
どうして廃れたのだろう。
今と昔とで何が違うんだろうと思っていた。
戦争を経てジョークの類が禁止されて、
そこで途切れた、というふうに言われたもするし
江戸の人には面白がる土壌があったんだ、
とも言われたりするが、
それだけだとちょっとしっくりこない。
そこでぼくが思ったのは、
ことばを受信する方法が、
大きく変わっているからなんじゃないか、
ということ。
昔は音でことばを捉えていた。
ことばが文字で固定されずに、
音だから意味を自在に行き来できるものとして
認識されていたのだろう。一つの身体感覚として。
さぞ、ことばの音の部分に敏感だったろう。
対して、今はことばは圧倒的に文字で読む時代。
本しかり、インターネット、SNSしかり、
対話手段が文字であることが多い。
それに文字に対する滞在時間もごく短い。
一瞬で次へ行く画像の時代。
江戸に比べると、ことばは味が薄いもの
意味さえわかれば、どうだっていいようなもの。
今のぼくらには噛みすぎたガムみたいになってる。
現代でことばあそびをやるなら、
幸福の源であったり、遊び方、学びの提案など
実用的な効能もこみこみで作らないと、
通用しないなととても思っています。
具体的なネタは次回書きます。
2016/03/07