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ことばあそびの超展望その1

図書館でことばあそびの本を見ていると、
古いなと思う。時代じゃないと思う。
 
もともとことばあそびは、知的で、
コアなコミュニティの中で
ほそぼそと生息していたものだ。
クロスワードパズルみたいに。
 
人生のなかで一瞬メジャーになる
瞬間があるとすれば、
学校教育での「こくご」の時間。
おそらく日本全国のこどもたちが
このおかげで、ことばあそびを
いちばん純粋におもしろがれる。
でも、それ以降はあまり登場しない。
 
それから時代じゃないっていうのは、
SNSでのやりとりが(生身の会話よりも?)
圧倒的な多さであることに根拠がある。
そこでは言葉が、
偏にコミュニケーション機能として
バイパスのような役目を持つので、
相手に何を言いたいか、どう思ってるか
みたいな感情的な側面に意識はしても、
モノとしての言葉に意識はむかない。
つまり、言葉が透明化している。
 
モノとしての言葉とは、
音や音数、並び順、区切り、などなど、
本来、伝えたい気持ちをよりよく
表現し共有するための作法のような
ものだけど、
スピード感が優先されるSNSでは、
このあたり、あまり考慮されない。
(その軽さこそが多くの人を巻き込む
由来であるとも言えるけれど、)
 
おおい!156
 
一方、ことばあそびはモノとしての
言葉の関係を、極端なまでに
強調して捉えた戯れである。
だから、実用的な会話には向いてないし、
そういう意図も特に感じられない。
 
というわけで、SNSを使う大多数の人は
日々文字を打ちながらも、
ことばあそびだなんて、脳の片隅にも
ないのである。とぼくは思う。
 

 
判じ絵という「目でみるなぞなぞ」が、
江戸時代に盛んに流行った。
判じ絵もことばあそびの一種。
現在では時代の博物誌的な観点からのみ
関心を持たれるが、それ以上に
面白さが更新されることはない。
なぜ、江戸時代の庶民に流布したものが
いまの時代に廃れてしまったのか。
 
答えは識字率に関係がある。
江戸時代の庶民はまだ字を
読み書きできない人が多かった。
 
落語は耳で聞くだけなので、
読み書き出来なくても面白がれる。
だから一般大衆に流行るんだけど、
判じ絵も同じで、
ことばが絵に変換されたなぞなぞなので、
読み書きができなくとも、
ある程度は参加できてしまうのだ。
 
「読み書きできない自分でも、
挑戦できる」だなんて、なんだか
うれしくて楽しくて、何日も同じ問を
考えて熱中しちゃうという、
当時の気持ちは想像できなくもない。
 
これが「ことばあそび」を心から
わくわく楽しめた新鮮な時代だった。
 
現在のじぶん自身の感覚として、
図書館のことばあそびの本を読んで
「あれ?」と思うのもそこである。
好奇心と関心があるのは確かだけど、
純粋に、これがぼくにとって新鮮で
わくわくするか、
と言われたら全然違う。
 
ことばあそびがおもしろい、
ということ自体、今やちょっと間違った
見方なのかもしれない。と提案したい。
 
ぼくはこの提案を、
「ことばあそびにとっての未来の兆し」
だと思って言っております。
 
なにしろ文字で会話する機会が圧倒的に多い
私たちの世代環境は、逆にいえば
無意識に言葉に携わっている分、
みんなが「モノ側」にひっくり返るという
ポテンシャルも半端なくあると思う。
 
問題は、どういうところに、
現在面白がれることばあそびの
ニッチな魅力が潜んでいるのか。
それはまた次回。

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