worksは8/24に更新しました.

「散漫」の魅力

集中力がない。
 
ひとつのことをしていると、
連想ゲームみたいに、
いくつかの事柄が頭の中をめぐりだし、
あっちへ寄り道、そっちへ脇道、
最終的にぜんぜん関係ないことを
やりはじめている。
 
じぶんの頭が全然論理的ではない。
よくこれで今までやってこれたなと
じぶんで不思議に思う。
 

 
じっさいのところ「やってこれた」
という表現は正しくない。
やってこれなかったという積み重ねが
わたしであるから。
 
できることなら、この集中力のなさを
良きことに置き換えたい。
 
だいたい「集中力」が善きこととして
もてはやされ過ぎだと思うのだ。
 
そろそろ散漫であることを
善としてもいいのではないか。
 

 
ここで、働きアリのことを
思い出してみる。
 
働きアリは前を歩く仲間の
足跡を辿るという習性がある。
 
食料のありかへと赴き
つぎつぎと巣に運びいれる。
無駄な動きはしない。
たべものの在り処がわかると、
仲間同士で足跡の匂いを伝え合い
共有する。
 
なんて効率的なんだろう…
 
でもここで、問題児の存在を
説明しておかなければならない。
 
列を辿らない奴が、数匹いる。
 
自分の好きなほうに、むしろ
デタラメな方向に歩きだす。
これは本当にデタラメに歩いている
のだそうな。
 
このデタラメ組のうちの何匹かが偶然、
いきあたりばったりで食料に出会う。
 
さながら新大陸発見である。
(おおげさか)
 
こうしてあたらしい経路を
発見し足跡を残しながら家へ帰る。
 
この非効率な行動が、
あらたな経路を生むためには
欠かすことができない、というのだ。
 

 
こうしてみると、
なにかに集中しているよりも
多少なりとも散漫であったほうが、
なにかに「出会う」ことが多い
ということがわかる。
 
これは、故意に「散歩で迷う」行為と
似ている。
迷う数の分だけ、新しい道を見つけて
いることになるのだから。
 
偶然の数が多いだけ、
可能性の値は増える。
 
散漫は魅力である。
 

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