「散漫」の魅力
集中力がない。
ひとつのことをしていると、
連想ゲームみたいに、
いくつかの事柄が頭の中をめぐりだし、
あっちへ寄り道、そっちへ脇道、
最終的にぜんぜん関係ないことを
やりはじめている。
じぶんの頭が全然論理的ではない。
よくこれで今までやってこれたなと
じぶんで不思議に思う。
じっさいのところ「やってこれた」
という表現は正しくない。
やってこれなかったという積み重ねが
わたしであるから。
できることなら、この集中力のなさを
良きことに置き換えたい。
だいたい「集中力」が善きこととして
もてはやされ過ぎだと思うのだ。
そろそろ散漫であることを
善としてもいいのではないか。
*
ここで、働きアリのことを
思い出してみる。
働きアリは前を歩く仲間の
足跡を辿るという習性がある。
食料のありかへと赴き
つぎつぎと巣に運びいれる。
無駄な動きはしない。
たべものの在り処がわかると、
仲間同士で足跡の匂いを伝え合い
共有する。
なんて効率的なんだろう…
でもここで、問題児の存在を
説明しておかなければならない。
列を辿らない奴が、数匹いる。
自分の好きなほうに、むしろ
デタラメな方向に歩きだす。
これは本当にデタラメに歩いている
のだそうな。
このデタラメ組のうちの何匹かが偶然、
いきあたりばったりで食料に出会う。
さながら新大陸発見である。
(おおげさか)
こうしてあたらしい経路を
発見し足跡を残しながら家へ帰る。
この非効率な行動が、
あらたな経路を生むためには
欠かすことができない、というのだ。
*
こうしてみると、
なにかに集中しているよりも
多少なりとも散漫であったほうが、
なにかに「出会う」ことが多い
ということがわかる。
これは、故意に「散歩で迷う」行為と
似ている。
迷う数の分だけ、新しい道を見つけて
いることになるのだから。
偶然の数が多いだけ、
可能性の値は増える。
散漫は魅力である。
2012/11/09