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運命の理想像

自動販売機の前に立つと、
数本の分かれ道がある分岐点に
立っている、という気に囚われる。
 
ホットコーヒーか、十六茶か、
コーンポタージュか、おしるこか。
 
「いま何をのみたいか」に加えて
これを買うことによって、
どんな未来が待ち受けているのか、
と想像してしまう。
 
例えばコーヒーなら、このあとトイレに
気軽に行けない状況があるから
いまは止めておこう、とか。
 
十六茶は、お得な大容量で600mlも
入っているから、すぐに飲みきれず
バッグの中で荷物になってしまうだろう
とか。
 
おしるこだったら、いまここで
ぜんぶ飲みきれる量だし、
あたたかいし甘いし、幸せなキモチに
なれるかもしれないな、とか…
 
そういう、ほんの少し先の未来が
逡巡する。
 

 
そしてそこには正解と不正解が
あるような気がしてならない。
 

 
昔、小学校から帰ってきたとき、
おばあちゃんが話しかけてきた。
「ヒレカツと卵とじどっちが良い?」
夕飯のメニューのことである。
ぼくはどちらでも良かったのだけど、
ヒレカツ、と答えた。
 
「ええ、ヒレカツ?
お昼に肉屋さんでカツを
買ってきたんだけど、時間経ったら
湿気ってきちゃって、
卵とじにしようかと思ってたんだけど」…
 
この時に思った。
運命というものはコンパスのようであると。
運命の理想像を常に
指し示している方位磁石を各々携えていて、
それに従おうとしているものだ、と。
おばあちゃんは、「どっちがいい」と
尋ねながらも、ほんとうはもう
卵とじを心に決めているのだ。
 
占いを引いて、
しっくりくる!という人や、
あまりピンと来ない、という人もいて、
「ピンと来ない」となんだか物足りない。
 
それは、自分の中の正解や理想像
(コンパスの方角)と占いの結果が
違う方を向いてしまっている、
ということなのだと思う。
 
気が付かないうちに
主観的な正しさをいつも
自分の中に持っていて、
ささいなことの運命を決定づけている。
 
おしるこを飲みながら、
そんなことを考えていました。
 

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