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運命が交差する座席

誰にも親が選べないように、
生まれながらにして顔の形や、
背の高さ、ほくろの位置が
自分で決められないように、
人には、
自分ではどうにも変えられない
運命ってのがある。
 
電車で自分の座席の隣に
ガムをクチャつかせ、
なぜか時おり舌打ちをする
オジサンが座った時、
ぼくは、変えられない運命について
考える。
 
電車の隣に誰が座るか
なんてのも、
自分では決められない、
運命である。
 
身長の低い子が、
もう少し背が高かったら、
と願うように、
ぼくは、できるだけ、
若い女の子が隣の席に座ってほしい、
と願う。
しかも、結構強めに。
 
それはちょうど、おみくじで、
凶を引くか、大吉を引くか、
というのと同じで、
隣にすてきな女の子が座ってくれたら、
それだけで、
天を仰いで感謝したくなる。
 

 
しかし願うからこそ、
「叶わない」という発想は生まれる。
 
かの哲学者アドラーは、
与えられたものを、悔やむより
それを、どう意味付けし
うまく取り入れるかが肝心なのだ
というが、
鼻をほじった手でスマホを触ったり
やたらせき込む人が隣にいて、
どうよろしく受け止めたらいいのか、
皆目見当もつかない。
 
でも、これはお互いさまで、
ぼくが座ることで、隣の彼が
「ちぇっ
可愛い女の子だったらよかったのに」
と、嘆くことも少なくないはずだ。
恐らく。
 
自分が「叶わない」と同時に、
向こうも「叶っていない」のだから、
もうあきらめよう。しかたない。
いつかくるかわいい女の子を、
静かに、そして、おりこうに座って
待っているとしよう。
 

 
ぼくはまだまだ、この先の人生で
きっと何度も電車に乗るのだ、と
わずかな勇気をふり絞って
ゆっくりと駅のホームに降り立つ。

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