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語感の濃度

「散文」と「俳句」の語感って
違う属性のものだよなあ、と
分かっているつもりではあったけど、
じっさいどのあたりが違うのかを
実感したことはなかった。
 
けれど、いろは展に出品中の
二歩の新作「伝える票」を制作していて、
その違いは詳らかになった。
 
ちいさな子ども102
「伝える票」は決められた語群から
自分で選びとった単語が、
散文になったり、
575となって複写されるもの。
一言でいえば「変化する複写」。
 
意味の内容としてよりも、
語感の手触りを味わって欲しい
というつもりで構想しました。
 

 
制作上の問題として、まずは語選。
本の中から語を抜取る作業をする。
 
はじめは小説や詩集、絵本から
探していたけれど、どれも「伝える票」の
仕組みにはあてはまらない。
 
しだいに本を開くのが苦痛になり、
イスに座っているのが嫌になり、
目をあけているのに辟易して
そのまま眠りに落ちていくのでした。
 
けれど句集を開くと、面白いくらいに
採集できる。
水木しげる風にいえば「フハッ」
という感覚。
 

 
具体的にひとつ例をあげてみる。
 
小説などの散文にこんな文章が
あったとする。
 
「昼に蝶が飛んでいる」
 
それぞれの語が整合性をもち、
意味的な役割りを持つが語感は弱い。
蝶、飛ぶ、昼、というイメージが
あまりに「そのまま」すぎて
語のイメージの拡張にいたらない。
 
しかしこれを俳句的に変換すると
 
「蝶の昼」。
 
これは口語では絶対に使わない表現。
意味が限定されないからだと思う。
 
しかし、だからこそ
「蝶」という単語が「昼」という印象を
帯びて拡張される。
字面もどこか気持ちいい。
 
語感の濃度の濃さ、
これが散文と俳句の違いの一つである、
と思う。

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