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今回の実験「あたらしいロゴをかおもじサインにしてみました」

翻訳の摘みとり

本屋に行くと、だいたい
日本文学と同じくらいのボリュームで
外国文学の本棚があります。
 
最近ぼくも、日本のものよりも
アメリカやイギリスや、
ドイツやフランスなどの本
(主に絵のついたもの)を読みます。
 
そういうわけもあって、
てっきり海外のことを身近に感じたり
友人のような気がしてきてしまうけど、
「結局のところ、日本語を
読んでいるにすぎない」
という、ごく当たり前なことに
こないだ気がつきました。
 
外国の本を読んでいると
つい、日本の見慣れた慣習から
抜けだしたような開放的な気分に
なるけれども、実はそうではない。
 
翻訳というまやかしが、そうさせる。
 
世界にはたくさんの言語があるのに
日本語という呪縛から抜けだすことが
できそうもないと絶望感。
 
雨がやんだら238
 
ところが、一方で翻訳は
日本語にある作用を与えたとも思う。
 
外国の世界をイメージしながら
生まれた日本語は、どこかほのかな
香水をまとったようにかぐわしい。
ことばが粒だってみえる。
 
たぶん、翻訳するときは
意味を考えると同時に「字面を考慮する」
という行程が入るような気がする。
 
これは日本人が日本語を作文する時に
あまり意識しないこと。
 
ケストナー「一杯の珈琲から」
カレルチャペック「園芸家十二ヶ月」の
小松太郎。
ジュースキント「香水」の池内紀。
ブローティガン「西瓜糖の日々」の藤本和子。
岩波少年文庫などの石井桃子。
 
翻訳家をあんまり知らないですが、
少なくともこの方々たちの
おかげで外国の本に
出会うことが出来た。
 
読んでいてきもちいい。
字面が文章の内容に流されすぎず、
言葉という形が味わいとなって
小石のようにちりばめられている。
 
実は575はそんな翻訳の文章から
ことばの小石をひろい、
えらび、組み合わせて作っています。

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