ことばのロボットいろはちゃん 更新2020/8/5

真のたそがれ

近所に川があって、
ときどき散歩にいきます。

川沿いが雑木林になっていて、
多分3キロほどにわたって
緑地が続く。

時々、大小の公園と合流したり、
ところどころに橋があって、
そこを人々が、行きかう。

犬の散歩や、こどもたちと一緒に
ふわふわあるいている。

最近は日が暮れるのが遅いので
16時~17時くらいにぼくも
うろつくんだけど、
よくみるのが、たそがれているひと。

映画「めがね」で、
たそがれるのが上手、みたいな表現が
されていて、
浜辺で、ぼーっと、物思いにふける
姿が描かれているけど、

まさに、そういう人が
ぽつぽついる。

理由の一つには
ベンチが多いということも
あるのかもしれない。
座って、何をするでもなく
川を眺めるほか、木々のなびく音、
子どもたちの声、かすかな川のせせらぎ
を聴きつつ、しんとした心地に浸るのに
ぴったりなベンチがそこらじゅうにある。

ベンチがなくても、
橋のてすりに寄りかかり
そっと立ち尽くすひともいる。

女性でも、男性でも、
若い人も、お年寄りも、
どんな世代も平等にたそがれている。

そもそも、たそがれる、の意味は
日が暮れて、だんだん明るさが
おとろえていくさまのことを
示しているそうです。

語源としては、暗くなってきて、
行きかう人の顔が判別できなくなり、
「誰そ彼」、つまり、あれはだれ?
という言葉が、変形して「たそかれ」に
なったとか。

たそがれている人を見ると、
一様にみんな、すごい集中力なのです。

こちらがじっと見ていると、
たいていのひとからは
視線に気が付いたかのような
そぶりを感じるんだけど、
たそがれのひとには、
完全にスルーされる。

いくらこちらがじっと観察しても、
わたしはここにいません、
とでもいうように、
ぼーっとしている。

きっと自分が誰だか
どうでもよくなっている。
自分が「誰である」ということを忘れて、
なにかに感じ入っている。

まさに「誰そ彼」状態だなと
思います。

言い換えると無心の状態
ともいえるかも。

多くの自然の生き物たちは、
基本的に無心なんじゃないかな。

昨日の作文で書いた
南木さんが見つめていた川の中の
アユやハセも、
いま自分のしていることに無心になっている。

自分が、誰でも、そう大して変わらない命。
君が僕で、僕が君でも、
本来的には命としてはおなじなんだ。
ということに気が付く時、
真の「たそがれ」といえるのではないかなと
思ったりします。

いま、ここに生きている、
ということに無心になれたとき
ぼくは幸福なことだと思う。

だから、川でたそがれているひとをみると
こちらまで、こころがほぐされる気分に
なるんですよね。

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