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今回の実験「あたらしいロゴをかおもじサインにしてみました」

濃い言葉?

夏目漱石や、正宗白鳥、
芥川龍之介、中勘助など
あの時代の本を、古本屋で買って
読んでいたことがあった。
 
今でも日本語は、
よくわからない使われ方を
するけど、
「まんじ」とか。
 
辞書に載るような
はっきりした意味の言葉もあれば、
そうでない「なんとなく、空気」で
伝わる言葉もある。
 
明治の頃の日本語は、
それがもっと曖昧で
めちゃめちゃだった。
 

 
たとえば、
しかつめらしいを
「鹿爪らしい」と当て字にしたり、
みっともないの反対語として
「見っともいい」をつくったり、
証明は「證明」だったり、
理解は「理會」とか
もがくも「藻掻く」としたり、
謝るを「謝罪る」
印象を動詞化して「印象する」
なんて書いたり、
訳(わけ)は譯とするところを
森鴎外が「訣」と書いたり。
それを芥川龍之介が
ぼくもそれ使いたいという
手紙を書いたとか。
 
今は使わない漢字や使われ方が、
かなりオリジナルで開発されていた。
一種のファッションだったのかも
しれないけれど。
 

 
いま、上記に挙げた単語を
公の場に出そうものなら、
多少なりとも批判がくるだろうし、
世に出る前に、
それは間違いです、こうしてください、
という指示が入るかもしれない。
 
言葉の決まりが当時よりもしっかりした分、
制約が多くなったとも言える。
 
同じ夏目漱石であっても、
昭和の初期頃に発行された文庫と、
「坊ちゃん」のように、
小学生向けに新たに書き換えられた
本を読み比べると、どことなく、
空気感が変わる気がする。
 
昔のやたら画数の多い難しい漢字を
たくさん、しかも当て字だったりする
ページを見ていると、
なんかわからないけど、
味わいがあるように思える。
 
思えば、当て字もダジャレ的で、
意味が膨らむこともある。
 
もがくを「藻掻く」と書いていると
おぼれて藻を掻くように暴れている
様が浮かぶようだし。
 

 
柳瀬尚紀と山田俊雄の対談本
「ことば談義、寝ても覚めても」
(寝ても覚めても、は旧字)
を読むと、
今の言葉の使われ方が薄い。
という。
 
語源の消失や、旧字の印象を失う、
本来の意味が消えて、
別の用法になった言葉。
など、過去が、ぱーっと
消えていってしまう問題。
 
言葉が文字として残っている
歴史は1000年以上ある。
 
その積み重ねで今の
言葉があるのだから、
ばさっと昔を切り落として
言葉を軽々と使うのは、
いかがなものか、
というような老人的な本であった。
 
なるほど、それもそうだ、と
おもう反面、
半分、そうでもない気もしている。

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