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今回の実験「あたらしいロゴをかおもじサインにしてみました」

明治時代の中二病_2

江戸時代に流行った判じ絵が、
なんで今のぼくらの日常まで
引き継がれなかったんだろう。
という疑問。
 
今や、判じ絵というと
年に数回する展覧会や、
判じ絵を特集した歴史本くらい
でしかみることがない。
あとはEテレの番組。
(今もやってるのか知らないけど。)
 
扱いはいずれも、日本の伝統を
伝えようという魂胆であって、
日常からは距離を感じる。
 
いいか悪いかというよりも、
必然的にそうなったのだと思う。
 
要するに、現在と、江戸時代の
ことばとの付き合い方が、
(時代の空気感が)
変わったんだろうなと思う。
 

 
じゃあ、それはいつ?
どういうきっかけで変化したのか?
気になる。
 
(判じ絵をご存じない方は、
ここをご参照。)
 
日本語を作った作った男上田万年とその時代
(集英社インターナショナル)
山口 謠司著
をかいつまみながら、
足跡をたどってみたい。
 

 
江戸時代は長く続いたらしい。
海の岩場にできた小さい水たまりのように
隔離された囲いのなかで、
オリジナルの微生物として
江戸文化はゆっくり醸成され、
濃さを増していった。
そんなイメージ。
 
当時の江戸の町には、落語で聞くような
(良くも悪くも)ゆるさが
流れていたんじゃないか。
 
さて、そこから海をわたり、
イギリス、ドイツなど
ヨーロッパを見た日本人は、
神妙になった。
 
見てきた世界に圧倒されたらしい。
 
我が藩とは比べようもない文化の高度さ。
いや、藩などと言っている場合か、
ここは、一つの国としてまとまりがある。
 
日本は、仏教、神道、儒教がごった煮で、
その上、国という概念もなく、
「藩」(今でいう県に近しいか)
以上の(国家レベルの)
政治的まとまりはなかった。
 
西洋の文化の高さの原因は、
キリスト教のような一神教だ、
そして、近代科学のような
思想をもって国を統一することだ、
とかいって、
ついに明治時代の初めに
教導職を設置した。
 
ことばを含む、生活や人々の思想を
西洋列強に対抗できる近代的なものに
しようとする狙い。
 
その熱っぷりは相当だったようで、
瞬く間に多くの知識人の間に
飛び火した。
 

 
これはあれだ、と思う。
 
洋楽を聞きかじり、
新しくできた刺激的な友達と、
繁華街で苦いコーヒーをのむ
14才。
 
家に帰ると、いつまでたっても
田舎臭い家族を、だめだめで
恥ずかしくて、耐え難く思う、
そう中二病のようだ。と思った。
 

 
明治維新を20代前後で過ごした
外山正一、新島襄などは、
なんと、
「江戸以前の文化を
存在しないものにしたい。」と
言っていた。
 
もしかしたら、西洋の人たちが、
日本の文化の遅れを馬鹿にしたのが
耳に入ったのかもしれない。
 
ついには日本語を統制する会議の中で、
「日本語の撤廃」
「英語を公用語とすべし」
もしくは
「ローマ字表記のみにする」など
今考えれば、ありえないことが
本当に実現しそうだった。
 
ちょっと、落ち着いて!
と言いたいくらい。
 
SNSの過去をさかのぼると、
いろんな黒歴史が出てきて、
恥ずかしくて耐えられないので、
高校に上がると同時に、
アカウントは全部削除し、
あらたなアカウント名で
リスタートしよう。
みたいな感じにしか受け止められない。
 
こういう人たちが、
明治維新後に政権を新たに握る
ことになるから、
さあ、たいへん。
 
ここでほとんど強制的に、
いろんな文化的なものが
塗り替えられた。
 
それに反発した人もいるだろう。
そんなとき教導職は、
「いやいや、ちがうんです、
これはね、ほら、つまり、
冬のあとには春がくるように、
自然の季節の移り変わりと
同じことなんですよ」
というようなことを
言ったらしい。
 
なんかずるいな。
 

 
そして、面白いのは、
今の保育園、幼稚園、小学校の
教育指針には、
日本語(言葉)の「伝統的な」ところを
しっかりと味わって、伝えていこう。
みたいなことが書いてある。
 
ということで、次の疑問は、
伝統を嫌った日本は、
いつから伝統を大事にするように
なったのか。
そういう風潮はいつからか?

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