ことばの実験室 更新2019/7/15

手品みたいでおもしろい認知科学

景色をみていないなあ。
電車に乗っているときも、
駅のホームで電車を待っている時も
ついスマホを眺めてしまって、
周りの風景をみていない。

周りの人はどうだろう、と
意識して、ちょっと周りを見てみる。
やっぱり、
スマホを見ている人がほとんどだけど、
なかにはそうではない人もいる。

そうではない人は、
いったい何を見ているんだろう?

たとえば、
向かいに来た電車の何両目が
ちょうど階段のところか調べておく、
とか、
空をみてちょっと雲行きを観察する
とか、
歩いている人がきれいだなと思う、
とか、
ガラスに映る自分をみるとか、
それぞれに風景に対する価値の
置き方が違うんだなあ、と思う。
(想像だけど。)

人それぞれの価値の付け方が
おもしろいなと思う。

情報は同じだけど、
その価値は見た人の視点によってきまる。
ということが、
とてもことば的だなあと。

こんな実験をしてみよう。

「不動産屋の間取り図を、
熱心にみる〇〇。」

の〇〇に入る「人」によって、
間取り図の価値がかわる。

1、上京した大学生
これは、よくある光景。
部屋を借りようと思っている。

2、泥棒
これは、どこから侵入して、
どう逃げようか、とか、
お金を持ってる人がいるかどうか、
考えているのかもしれない。

3、間取り図オタク
これは、単に妄想を楽しんでいるだけか?
少なくとも引っ越しを検討しているのとは、
訳が違う。

本来とは違う使い方をしている人も、
少なからずいる。

それは、情報を発信する側ではなく、
受け取り方の創造力で情報の価値が
姿を変える。

手品みたいで、おもしろい。

もともと、これは、
文章はどのように理解されるのか、
という認知の仕方の研究があったりして、
上記の例もその実験をアレンジしてるんだけど、
もっと面白い具体例があればいいなあ。

そうだ、
小学生の頃の愛読書「頭の体操」で
こんな問題があった。

「ある落語家が初めての大舞台に立った。
その日は大いに盛り上がり、
涙が出るほど笑う人が多くいたが、
なかには、本当に泣いている人もいた。
それはなぜか?」

笑い泣き、ではなく
本当に泣いているなんて、
そんな矛盾がどうしておきるの?

それも、落語をどのように聞くか、
の視点が違うのだ。

笑っている人は、純粋に落語を
楽しんでいるんだけど、
泣いている人は、
ある意味純粋ではない。

落語そのものじゃなくて、
演者に対する想いに共感している
のかもしれない。

たとえば、彼の両親が
「立派になって…」という気持ちで
泣いている。とか。

同じものごとを見ているはずなのに、
視点が違うっていうことに、
もっと意識してみたら、
なんかおもしろいだろうな、と
ふわふわ思っています。

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