ことばの実験室 更新2019/7/15

巨匠のおしゃべりその2

川端康成というと、
国語の教科書に載っている
雪国」で知って、それで
掌の小説」を読んだ記憶がある。

ほとんど歴史上の人物という
イメージで、写真でしか顔を
みたことがない。

それが、びっくり、
伊藤整、三島由紀夫との鼎談の様子が、
映像で残っていて、
YouTubeに上がっている。

ここでも、感銘を受けたので、
紹介してみよう。

三島
「ノーベル賞は華やかだけど、
かつて、ここのお宅(鎌倉の長谷)に
伺いますと、これから仕事しますっていって
書斎においでになる。
その後ろ姿を拝見すると、
苦しんでいる様子が思いうかんで
なんともいえない気持ちになる。

孤独な苦しい深夜の机の上の仕事が、
国家的な栄誉へと繋ぐもの。

これが不思議な働きだと
思うんですよ。」

川端
「しかし、苦しむっていうのは、
怠けた結果でね。

だけどまあ、怠けているから、
今まで生きてたんでしょうね。

そうすると、ノーベル賞も、
怠けた結果だということに。」

三島
「力まないというのは、難しいので。
剣道の極意ですよ。」

伊藤
「リラックスという言葉とは違うんだけれど、
(川端の作品には)無為の行間
というのがあって、
それを前提にして結晶が出てくる。
怠けてこられたというのは、
充実するための必要な行為
であったということじゃないかと。」

山の音」では、海外の人から見ると、
「連歌」と評されるほど、
意味のつながりに距離感が
感じられるらしい。

行間が無為なジャンプをするらしい。
力まないが故の飛躍。
力をこめて、伝えるぞ、と思わない。
気になるので、読んでみよう。

「自分は怠け者」と言うのって、
ノーベル賞をとったくらいの人であれば、
「怠けもの」が単なる「怠けもの」
として聞こえなくなってくる。

それは意味のある「怠け」だと、
肯定的に受け取られる。

だけど、ぼくのような人が
いうとリアル怠けものに
なってしまう…

でも…
考える時や試作するとき、
上手くいかないと、
今日の出来高はほとんどないや、
みたいな日がある。力んでいる。
働いているようなつもりで、
働いていないという例。

そんなときは、散歩に出ると
いい具合に力を抜けて、
「あ、これは」というアイディアが
浮かぶ。
これは、怠けているようで、
結果的に働いている、という例。

ぼくの場合は、
後者の場合で進展することが多い。

なので、他の人からすると、
やっぱり自分も怠けて
いるんだろうなあ。

そんなときは、川端康成の言葉を
おまもりのように思い出そう。

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