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不自然さのために

そんなにお腹がへっていないけど、
なんかさっと食べておこうというときに
近所の立ち食いそば屋に入る。
 
昼頃になると駅前の通りも賑やかで、
そば屋も、おおくの男性でいっぱいである。
人と人の狭い隙間に入って、冷やしそばを注文すると
えっと思うほど早く出てくる。
 
さて、わさびをどっさり入れて、ネギもつまんで、
割り箸をとって…。
そう、このタイミングの話である。
今日の話題は。
 
人がいっぱい、あるいは、自分がだれかの視界を
侵食している時、
自分の一挙一動が、「非常に意識的」になってしまう。
 
意識してしまうがあまり、隣の人の前においてある
割り箸、わさび、ネギをとろうとする手の動きが
無意識でいられなくなる。
 
普段、ものをとるときに、いちいち手の動きなんて
意識することなんてない。
無意識にほとんど自動的に手がすっとのびて、
気がついたら手元にものがある。
そういうかんじ。
 
つまり、意識してものを取るということに
慣れていない。
わさびの器をとるのに、どの指でもったらいいか、
持つのに使わなかった指は、
どうあそばせておけばいいのか。
分からない。
 
だから、へんな感じになってしまう。
そういうことってないでしょうか?
人の視線が気になるばかりに妙に体全体が
意識過敏になっているというような状況。
 
人と話している時でも、
目の前にいる人と目を合わせたものか、
あえて外らした方がいいものか、
足の体重のかけ方ってどうするんだっけ、
手は組んだ方がいいのか、脱力してれば
いいのか。
 
無意識でいられれば、なんてことのないのに、
どうもひっかかって、ろくに相手の話も
耳に入らない。
 
無関係でいられれば、自然体でいられるのだけど、
面と向かって意識を向け合ったとたん、
たとえば、レジでおつりを受け取るときなんかも、
意識が体中に行き渡り、いったいどういうのが、
自然なお釣りのもらい方なんだっけと挙動不審になる。
 
現代病であろうか、日本人の神経質な特性だろうか、
どうでもいいんだけど、そういうふうに
なってしまうことがある。
 

 
さて、本題はここからなのだけど、
その解決法、リハビリ法を思いついたのだ。
 
結論から言うと、
「これは映画の撮影だ」と思うこと。
 
そういう役を演じているんだよ、あたしゃ。
と思い込みすること。
 
要するに自分のしていることが、
周囲からみても、そういうものだと
承認されているという意識をもつこと。
 
その場にいるみんなが、わかっていることだ。
ぼくがネギをかけ、わさびを盛り、割り箸を
割って食べ始める、ということを
みんなが期待している。
そうしてくれ、と思っている監督がいる。
 
自分の行動が必然なのだ、と現場レベルで
受け入れられている。そんな状況を思い浮かべる。
 
…ということは…、
ここで、分かることがある。
普段、だれかの意識の領域に自分が入ったとき、
受け入れられていない感がしているのだ。
 
自分がここにいることは、なんとなく
適正ではないという気がいつもしていたのだ。
 
永遠のおのぼりさん的な。
 
こまるねえ、きみ撮影なんだから、
思い切りやりたまえ。
という天からの声に背筋をのばして、
自然なふるまいのためのリハビリを続けようと思う。

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