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これからの幼児性

幼児的な雰囲気が好きなんだけど、
その基盤となっているものは何だろう。
 
気持ちがつらい時や、
思い通りにいかないときに
行きたくなる心の中の日当りの良い場所、
ということとは異なるだろうな、と思う。
 
好奇心のかたまり、とか
限度を知らない、とか、
そういうわがままみたいなもの。
 

 
きれいな虫を見つけて、じーっと
見るんだけど、
あまりにも動き回るんで、
つかまえた!って潰しちゃったり。
 
かみかざりに見とれるあまり、
わあこれなんだろうと、
確かめるように
ぐいぐい曲げはじめて
しまいにはポキッと折ってしまったり。
 
おかあさんの手伝いをしようとして
洗いものの沢山はいったカゴを
もって行こうとするけれど、
途中でおかあさんが、じゃあ後は私がと、
カゴを取り上げた途端に
わああっと泣き出す。
 
気持ちのあまり逆の結果を導いてしまう
好奇心と破壊。
献身とわがまま。
こういう極端な矛盾したものを
持ち合わせている。
 
理性とともに消えていく感覚。
「自己」というものの核がむきだし。
 

 
理性を踏まえていくと、
有難う、と言ったり、
ごめんね、とか、ものを大切にしようとか、
仲良くしようね、などという。
 
子どもが友だちの腕を噛んだといって
痛々しい叫び声をあげるのは
保母さんの方である。
 
傍で見ているコチラまで
どきっとするような
「ああ、あんた何てことしてくれたの」
という善きオブラートに包まれて
成長していく。
 

 
作品の内容を考える時は、どうしても
自分の考えた「アイデアとしての理論」が
具体的に成立して、広く浸透するようにと
腐心するのだけど、
それゆえにありきたりな建前に行きつく。
 
一般的な考えというか、
「ありがとうと言うのは大切」とか、
「きらい」というよりは
「すき」という方が好ましい、とか
謝ることは自分にとっては面白くないこと
だけど、だからこそこちらが折れる必要が
あるんだ、とか、そういう
善きとされる場所に着地する。
 
お金がお金であるのは、すべての人が
お札や硬貨を「お金だ」と信じ込んでいる故。
という仕組みと同じで、
みんなが「それは良い」と思っていることは
多くの人に通じる通貨となる。
 
自分の作った作品の仕組みを
内容とともに説得力を持たせるには、
そういうはっきりとした善き領域を
目指すことが必須だった。
 
しかし一方で、それは本当ではない。
とも思っている。
 
そうすることで、なにか本来的な幼児性を
失っているような気もする。
 

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