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ことばを認知すること

言葉のことを知ろう、と思うと
ひとまず「文法」のことを
思い浮かべます。
 
小学校にあがってまず必要な
国語の勉強といえば、
人とコミュニケーションをとること。
正しく読み、書くことができること。
 
文法をかんたんに説明すると、
「ものごとを正確に伝えるための
言葉の並べ方」と
言うことができると思います。
 
言葉への入り口が
このようなものであるから、
言葉の勉強=文法という図式が
でき上がってしまう。
 

 
けれど、作品の素材として
言葉を考えようとするとき、
文法は、「作法」としてありえても、
「表現の核」としては成り立たない、
と考えるようになってきました。
 

 
「言葉で正確に伝える」というのは、
つまり意味を一義的に固定することで、
それは連絡手段になりえても、
表現にはなりにくい。
 
なぜなら、和歌などにみられる
「掛詞」ひとつとっても、
同音語をあいまいにしながら
描き余韻やひろがりをみせるのは、
つまり「正しく伝える」という
観点から見ればそぐわないものです。
 
ことばとしての表現にはどこか
エラーとしてのとらえ方が
肝なのではと睨んでいます。
 
言葉が、単語ひとつひとつが
どんな潜在能力をもっているか、
それはどんな状況で発揮されるか。
 
このように、
意味が正しく伝わるかどうか、
ということよりも、脳のなかで
どのような認知処理が起き、
想起されているか、という現象が
問題となってくるのです。
 
それを逆にとれば、
言葉のあつまりは文法を無視しても
何かしらの現象として、
脳に認知されていることを
示唆しています。
 
その「言語の認知」としての
仕組みを知ることで、
表現に活かしたい。
 
言葉をもっと科学的な対象として
見つめることによって、
普段なかなか意識に立ち上がらない
言葉のポテンシャルを
ひきだしたい。
 
ということを考え始めています。
 

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