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今回の実験「あたらしいロゴをかおもじサインにしてみました」

「意味などない」にある価値

どうしようか…
と悩んでいる時間って恐ろしい。
 
脳内で計画を立てたり、
あれは、こうして、ああして…
 
…?そういば、昨日のあれって、
どうしたっけ、そうだったっけ。
 
などと考えるが、
傍から見たら、
「頭が真っ白になって、
宙を眺めている」ようにしか
みえない。
 
あらぬところを見つめる
猫のごとし。
 
猫も感覚に思うところがあって
なにか考え事を
しているのかもしれない。
 
そういう目的のはっきりしない
曖昧な時間というのが、怖い。
 
(養老孟司も
『希望とは自分が変わること』(新潮文庫)
の「「読む」とはどういうことか」
のエッセイでそんなこと書いてたな。)
 
この作文を書くにしても、
なにを書こうかと思う分だけ
無為に時間だけが過ぎていく気がして。
じれったくて、しかたがない。
 
(ほら、この時点ですでに43分が
経過している…)
 

 
一方で、ぼーっとしていても、
じれったくならない場合がある。
 
それは、電車やバスに
乗っているとき。
それから、風呂やトイレに
入っているとき。
 
ぼーっとしていても
漠然と本を読んでいても、
罪悪感はやってこない。
むしろどこか充実感。
 

 
ぼーっとする時間は、
必要なんだけど、意識の中の自分は、
なかなかそれを認めようとしない。
 
一日の成果をあげろ!と思う。
 
そんなんだったら
「移動」や「排泄」や「入浴」という
それ自体ですでに意味のある時間に、
「ながら」やればいい。
 
最近は「瞑想」という便利な
ツールもできて、
これなら、いまは「瞑想」している
という意味を持つから、
気兼ねなくぼーっとできる。
 
ただ、ぼーっとしてるんじゃなくて、
「瞑想」なんだから。大丈夫。
 

 
それについて、もう少し言うと、
ノーベル賞の時期が近いから…
というわけじゃないけど、
1996年に文学賞を受賞した
ポーランドの作家
ヴィスワヴァ・シンボルスカ
という女性の詩人の受賞スピーチに
こんなのがあった。
 
略しながら引用すると…
「偉大な学者や芸術家の伝記映画が
たくさん作られるのは、偶然ではない。
 
学者や、画家、音楽家の映画は、
再現性がある。
 
つまり、出来上がる過程を
ドラマチックに描くことができる。
 
しかし、最悪なのは詩人の場合。
 
机に座るか、長椅子に寝そべるか、
不動のまなざしでじっと
壁か天井を見つめ、あっという間に
一時間が過ぎ、その間はなにも起きない。
 
詩人は絶望的なくらい絵にならない。
 
自分でもよくわからないことを
人に説明しようなんて
簡単にできることではないしょ?」
 
…かなり、かいつまんだけど、
スピーチの途中で上のような
話をしていた。
 
これにぼくは、共感を覚える。
 
詩人は言葉や、行為に現れない、
そして、うまく人に説明できないことを
頭の中で生み出そうとしてる。
 
そういう時間を、夢物語を
夢想する馬鹿らしいものだ!
と机の上に置いてあるいくつかの
現実のタスクが、
声をあげているように思える。
 
しかしぼくは「果たして、そうかな」
と、企みほくそ笑んでいたいタイプだ。

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